仏教講座

− 開祖のお話 −

[お釈迦様] [最 澄] [空 海] [良 忍] [法 然]
[親 鸞] [日 蓮] [栄 西] [道 元] [隠 元]

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お釈迦様
今から約2500年前の4月8日、現在のネパール領にあった 釈迦族の小さな国(カピラ城)の王子として生まれた幼名“シッダルダ”が 後のお釈迦様です。
 王子さまと言えば、何不自由ない生活が保証されているお方ですが、 シッダルダは、望むもの全て手に入っても、老いていくこと、病になること、 死んでいくという人生の“苦”からは逃れられないと感じ、悟りの世界に解脱するために、 全てを投げ出し出家されました。
 出家されたシッダルダは、6年間の修行の後、悟りをひらかれ、 仏陀(真理に目ざめた人)になられたのです。
 すべてのものは、因縁によって生起するという「縁起」の法を 悟られたのです。この縁起の法から、四諦・八正道などの仏教の根本思想が 導き出されました。

釈迦族出身の聖者という意味から「釈迦牟尼世尊」とか、「お釈迦様」と 呼ぶようになったのです。
 そして、80才で亡くなられるまでの45年間諸国を行脚し、多くの人々に 教えを説かれました。


最澄(767〜822) [ 天台宗 ]
 最澄(傳教大師)は、 神護慶雲元年八月十八日近江の国比叡山の麓古市郷(現在の 坂本生源寺)で誕生した。父は帰化の漢人の末裔、三津首百枝、 母は藤原藤子である。十二才で近江国分寺の僧国師行表の 弟子となり仏教の一乗思想の大切さを教えられた。奈良の都 の大安寺や東大寺で学んだ後、今から一千二百余年前の延暦 四年七月十七日、十九才の彼は一人比叡山にわけ登り自ら 一刀三礼して釈迦・弥陀・薬師の三尊をつくり一乗止観院 というお堂を建てヽまつり厳しい修行生活に入った。これが 比叡山寺のおこりである。彼はそこで、先に唐僧鑑真(七五 四来日)がもたらした随の天台智者大師智(五三八−五九 七)の「仏教の全容を総合体系的に整理し仏説の教理と仏教 の実践道を明確に示した天台教学の典籍」をとり寄せてひた すらその法華一乗思想の研鑽につとめた。
 延暦二十二年桓武天皇の命をうけて遺唐使派遣と共に唐 へ留学し、天台山国清寺行満座主から天台教学(円教)を学 び、道邃から大乗菩薩戒を授かり、修然から禅を伝え、順暁 阿闍梨から印度伝来の密教の胎蔵界・金剛界両部曼陀羅の 相承と灌頂を受けて、円・密・禅・戒の四宗を相承し延暦二 十四年七月四日遣唐使と共に帰朝復命して将来目録(台州録・ 越州録二四七部三四七巻うち密教経典一五〇巻其他)を上っ た。明けて延暦二十五年一月二十六日(八〇六)新たに天台 宗の年分度者が毎年二人と定められここに天台宗が勅許開 宗された。最澄は聖徳太子の和の精神や治国の理想を深く理 解し、顕教・密教・禅・戒律を法華経(円教)のもつ一乗思 想で統一するという独自の宗教観で教学を立て、比叡山を総 合仏教の解行双修の道場とする制度を確立して大乗菩薩僧 (道心ある人士)を養成し、国の恩に報い且つ世の人々の為 になる国宝的人材教育に力を注ぐ。
 これより最澄は、比叡山に大乗戒壇を創立することを決意 し、大乗戒壇独立の運動を展開してその一生渡を貫ぬく。こ の最澄の思想と精神が比叡山天台仏教一千二百年の歴史の 基礎であり、その一重融合の理念は今なお我々に大きな示唆 を与えて止まない。弘仁十三年六月四日(八二二)比叡山 中道院で入寂五十六才。同年六月十日大乗戒壇設立の勅許が 下る。翌年二月二十六日延暦寺の寺号を賜わり天長四年五月 一日(八二七)比叡山に大乗戒壇院が建つ。貞観八年(八六 六)清和天皇より侍教大師の謚号を賜わる。これは日本最初 の大師号である。


空海(774〜835) [ 真言宗 ]
 八〇四年、留学僧として 達磨使船で入唐した空海は、唐の都・長安で、当時の中国密 教の第一人者、青竜寺の恵果(七四六〜八〇五)について金・ 胎両部の密教を授けられ、八〇六年に帰国した。
 帰国した空海は、まず、自ら持ち帰った経典類を「請来日 録」としてまとめ、朝廷に献上。その内容は、二一六郡四六 一巻の密教経典を中心に、仏具九種、仏画蔓茶羅など十舗、 その他十三種で、密教経典類は新しく日本に伝えられたもの ばかりであった。
 密教の依りどころとする経典は、『大日経』と『金剛頂 経』であるが、空海は、理論面と実践面を統合して教理を 立て、密教を宗派として成立させ"真言宗″を開創、最澄が天 台宗に伝えた密教を「台密」と呼ぶのに対し、空海のそれは 「東密」と呼ばれている。
のち、八〇九年に京都の高尾山寺(神護寺)に住して″真 言宗"の法燈を掲げ、八一六年に高野山を賜わり、金剛峯寺 を開創、八二三年に賜わった教王護国寺(東寺)と合わせて この二寺を密教の根本道場とした。
 そして、インドや中国にはみられなかった密教の組織的、 論理的展開を果たし、宗派として大成させたのである。


良忍(1072〜1132) [ 融通念仏宗 ]
 十二歳で比叡山に登って出家し、良賀の弟子として修学。 その後修行を重ねて、大原に隠棲し一一一七年、 四十六歳のときに″阿弥陀如来(仏)″の示現を受けて開いた宗派である。
 一人の唱える念仏の功徳が万人(多数の人) の念仏の功徳となり、万人の唱える念仏が、また一人の念仏 の功徳となる − という考え方を説く。そして、良忍が″阿 弥陀如来″から感得したこの教えは、
 一人一切人 一切人一人 一行一切行 一切行一行  是名他力往生 十界一念 融通念仏 億百万遍 功徳円満 という文章で表現されている。
 これは、「一即一切・一切即一」ということばであら わされるように、「大宇宙のなかにあるすべての物は、それ ぞれが関連し合って存在している。だから、一微塵(きわめ て細かいもの)をとればそのなかに大宇宙が含まれているし、 宇宙は微塵を含んでいる」という哲学思想で、『華厳経』と いう経典にもとづく考え方である。
 そして、一人の念仏があらゆる人の念仏と融通し合って往 生浄土が可能になる と説くことから、「他力往生」と名 づけている。
 さらに、念仏だけではなく、一つの善い行ないが、他のあらゆる よい行ないと融通する―とも説いている。 良忍は、開宗以来、この教えを実行に移し、全国に“念仏勧進”の 行脚をしてまわった。
 そして信者は、毎日百遍の念仏を唱えることを日課としている。


法然(1133〜1212) [ 浄土宗 ]
平安末期から鎌倉初期にかけて、「仏教が衰え、世の中が乱れる」という″末法 思想″が日本中に広まっていた。
 これを憂えた法然は、出家者でなくても、誰でもが"阿弥 陀仏″の誓いを信じ、それにすがることによって、浄土に生 まれてさとりを開くことができるとする″易行道″の考えにも とづき、ただ「阿弥陀仏」の名をとなえること(専修念仏) だけで極楽浄土に往生できる― と説いた。立教開宗は一一 七五年。のちに、法然は、念仏が往生成仏の根本であること を説いた書『選択本願念仏集』を著したが、これは立教開 宗の宣言書に擬せられた。
 法然は九歳で出家、十三歳で比叡山に上り、天台教学を学 んだ。そして四十三歳のとき、中国の善導(六一三〜六八一) が著した『観経疏』を読んで、目をひらかれた。「一心に専 ら弥陀の名号を念じて、行住坐臥(生活のいっさいを通じて)、 時節の久近(時間の長短)を問わず、念々に捨てざる者、是 を正定の業と名づく。彼の仏の願に順づるが故に」という 一節に触発されたのである。
 そして、凡夫が救済される道は「称各念仏(口称念仏)」 であることを確信し、比叡山を下りて専修念仏の布教を 開始した。
 以後、念仏信仰の隆盛を妨げようとする勢力や南都 (案良)や北嶺(叡山)の既成教団からの数々の迫害と戦 いながらも、新興の教団としての地位を増大していった。


親鸞(1173〜1262) [ 浄土真宗 ]
 「南無阿弥陀仏」の 称名念仏によって、浄土に往生できる ― とした浄土宗の開 祖・法然の他力思想をさらに一歩おしすすめたのが、法然の 弟子・親鸞である。親鸞は、往生のきっかけを「信」におき、 阿弥陀如来の本願を信ずる心をいただいたときに、その人は 往生できると説いた。
 親鸞は九歳で出家、比叡山で二十年間修学し、二十九歳で 叡山を下り、法然の弟子となって、″専修念仏運動″に身を投 じた。
 一二〇七年、師・法然とともに法難に遭い、法然は土佐 (高知県)へ、親鸞は越後(新潟県)へ配流。一二一一年 流罪を解かれた親鸞は、常陸(茨城県)に居を定め、二十余 年の間、関東地方で布教につとめたのち、晩年に京都に戻り 九〇歳でその生涯を閉じた。  親鸞はまた、僧侶の肉食妻帯の禁を憂い、三善為教の女・ 恵信尼をめとったことでも知られている。


日蓮(1222〜1282) [ 日蓮宗 ]
 十六歳で出家、鋳倉、 比叡山を中心に十一年間の修学ののち、『法華経』こそが釈 迦の説く最高の経典であると確信、一二五三年、清澄山頂で 「南無妙法蓮華経」の題目を高唱したときをもって、立教開 宗の年とされている。
 日蓮は、一二六〇年、『立正安国論』を著し、浄土宗、禅 宗などの他宗派を批判、『法華経』を信じないと天変地異が つづき、国難が来ると予言した。
この書を鎌倉幕府に呈出す るとともに、日蓮は鎌倉で辻説法をつづけたが、その主張が 受け入れられず幕府に捕えられ、伊豆、佐渡へと流される。 一二七四年に許されたのちは、甲州(山梨県)身延山で弟 子、檀越の教育にカを注ぎ、身延山を信仰の中心とするべく 礎を築いた。その九年後病気治療のため常陸(茨城県)に湯 治に赴く途中、武蔵国池上(現在の東京都大田区池上)で亡 くなった。
 日蓮の没後、後事を託された弟子の六老僧(日昭、日朗、 日興、日向、日頂、日持)は、それぞれ、日蓮の教えの布教 伝道につとめた。


栄西(1141〜1215) [ 臨済宗 ]
 中国唐代の臨済義玄(?〜八六七)を宗祖とする臨済宗。宋代に なって、臨済宗は楊岐派と黄竜派に分れた。
日本で鎌倉時代に初めて、明庵栄西が黄竜派の禅を伝え、続いて、蘭 渓道隆や無学祖元などの中国僧が来朝し、楊岐派の禅を伝え られ純粋な禅風を吹込んだ。
 禅の根本思想は「不立文字、教外別伝、直指人心、見性成仏」 の達磨の四聖句に収斂される。経典や言葉に頼ることなく、説かれた言葉 以外に真理が存在し、仏性を持つ本来の自分に気がつくこと、それが悟りである。
つまり、人間の主体性を重視し、 生まれながらにして誰もがそなえている、尊厳で純粋な人間性を自ら悟ることによって、 仏とかわらぬ人間の尊さを経験することにある。
それを得るがために、公案を用いて、坐禅と作務(労働)を重視する。


道元(1200〜1253) [ 曹洞宗 ]
 八世妃の初めごろ、中国に成立した曹洞宗(開祖は洞山) を道元が日本に伝えた。
 道元は比叡山で天台教学を学んだのち、建仁寺の栄西の弟子 となって禅を修め、一二二三年に入宋した。そこで最初、 "臨済禅″を学んだが満足できず、一二二五年、洞山十三世の 如浄に出会って、如浄こそが求めていた正師であることを知 り、如浄に師事、三年間の修行をへてその法を嗣いだ。
 一二二七年秋、宋から帰国した道元は、京都の建仁寺に入 り、『普勧坐禅儀』を著し、「坐禅は苦行でなく、証上の修、 本証の妙修で、坐禅こそ安楽の法門である」と説いた。のち 一二三四年に山城国深草に興聖寺(宝林寺)を開創、『弁道 話』(『正法眼蔵』の序章)を著して釈尊より迦葉尊者、達 磨大師、如浄禅師へと滴伝の仏法の真髄を宣揚した。これが すなわち、日本の"曹洞宗″の始まりである。
 興聖寺における道元は『正法眼蔵』の執筆をつづけるかた わら、訪れる僧侶を教化した。やがて一二四三年、越前に下 り、永平寺を開山、ここを曹洞宗の根本道場と定め、生涯に わたって権勢や名利に近づかず、『正法眼蔵』を執筆、「只管 打坐」(ひたすら坐禅をすること)を説きつづけた。


隠元(1592〜1673) [ 黄檗宗 ]
 中国・明代末の禅宗の高僧・隠元が、江戸時代初期(一六五四年)に来日、 徳川四代将軍・家綱より山城国宇治(京都)に寺領を賜わり、 "黄檗山万福寺″を創建した。
 隠元は、臨済義玄の師・黄檗希運が住山して臨済禅の道場 として栄えた黄檗山万福寺の住持となった僧で、明代末の中 国における臨済系統の禅宗の重鎮であった。
 教えの特徴は人間が生まれながらにしてもっている仏心 を、坐禅行を行なうことによって、自らの力で見出し、仏陀 と同様の境涯を体得させようとするもの。
 仏心の発見 ― さとりの境地に到達することはなかなか むずかしい。しかし、坐禅によって心身の統一をはかり、ま た労働奉仕の喜びを覚え、朝夕の写経により自己反省を促し、 厳格な食事作法に一粒米の尊さを教える…など、日常生活 における一挙手一投足をして、仏陀の世界へ近づけようとす る精進(努力)、それが大切なのだと説く。
 参禅をもって仏心を究明し、『唯心の浄土、己身の阿弥陀 仏』を体得し、禅教一如の妙諦により転迷開悟安心立命を期 するを教義としている。
 臨済系の宗風に明代の″念仏禅″を加えた隠元の教えは、往 生浄土や念仏などの浄土教教義をあわせて説いて、念禅一致 をはかる一方で、真言陀羅尼などの密教的要素も加味してい る。
 また、漢文ではなく、本場の唐韻による誦経は、その独特 な節廻しで、「黄檗の梵唄」として有名である。

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